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![]() 人間の知恵は困ったとなると、とんでもないことを考えるもんである。車を動かすガソリンがないとなると食料になるトウモロコシを原料にしてバイオエタノールを作りガソリンの代用にする産業が登場したのだ。このために穀物相場が高騰してしまい、畜産農家や鶏を飼育している農家は牛の飼料が高くて採算が合わずに、辞めてしまうところもでてきたのです。つまり、高く売れるところに穀物がまわってしまい、世界的には食料危機になってしまうのだ。 環境問題どころか人類の食料まで奪って車社会を辞められないのが人間のサガなのであります。石油を手に入れるためには、いかなるおぞましいことでもやってしまうのが人間という生き物なのです。大きな国は、石油をたくさん持っている小さい国に対しては戦争を仕掛けてでも手に入れようと悪知恵を働かせます。 風の谷のナウシカの世界は、人間の犯した「火の七日間」という争いで、緑と水で覆われていた地球に人が住めないような状態になってしまったのです。それはまさに人類の科学が作った原水爆という最終兵器のボタンを人間が押してしまったからにほかなりません。そんな滅びゆく地球にあっても自然の治癒力を信じて、希望を持って生きてゆく姫様の物語になっています。 宮崎監督は、人類は地球上に存在した動物では最も凶暴な生き物であることを、物語を作る上での基本においているように思います。戦争や戦いの場面を必ず中心に持ってくるのもそのためかもしれません。もちろん飛行機や兵器などの人間の知恵の産物に宮崎さんがとても興味を持っておられるのは、マンガや絵になる要素がたくさんあり、エンターテインメントを展開していくにはとても大切な悪の要素を含んでいるからなのです。 アニメ「風の谷のナウシカ」のタイトルの前に、じつは協賛を申し出た自然保護団体WWFのクレジットを入れるか入れないかでプロデューサーの高畠勲さんと20年前に大激論になったのでした。この団体はイギリスのエジンバラ皇を名誉総裁とする環境保護活動団体なのです。おもに地球上の希少動物などの保護活動をしているのせす。まさに「風の谷のナウシカ」のテーマにぴったりじゃありませんかと、大手広告代理店の営業マンが喜び勇んで話を持ってきたのでした。 つづく ![]() なにやら地球の環境問題をテーマに、この8月に北海道の洞爺湖で開かれるサミットを盛り上げるためにマスコミをはじめ国をあげてキャンペーンの真っ最中のようだ。日本テレビが宮崎駿さんのアニメを独占的に放映権を手に入れるきっかけになったのは、私が旗振り役で苦労したアニメ『風の谷のナウシカ』からなのです。 いまから20年も前のことになるが、私の出版社の社長さんは読売新聞の社会部にいた関係で、読売の幹部とは大変に親密な関係がありました。アニメ『風の谷のナウシカ』が興行的のヒットしたために、テレビの放映権がいくらで売れるかがビジネスの最大のポイントでありました。その大事な場面で社長の天才的な張ったりがきいて、思いがけない高額な放映料を日テレが払ってくれたのであります。それがきっかけとなって、その後のスタジオジブリ作品はすべて日テレが放映するようになったのです。 その当時、日テレはテレビアニメの人気シリーズをいくつも持っており、担当のレベルでは話をしても全くきいてもらえない面倒な案件のようでしたが、決定はトップダウンで行われたために現場の人は面白くなかったみたいです。所詮、三流の出版社が企画したアニメを、なんで天下の日テレが買わなきゃならんのかというプライドも会ったのでしょう。大きな会社ですから、担当が自ら進んで冒険をするような人はいないのです。 アニメファンに支えられて、これほどまでに映画の興行もヒットするとは配給を担当した会社も考えなかったのでしょう。観客数の計算を間違ってしまい、それが発覚したのが原因でその後はスタジオジブリ作品の配給が出来なくなってしまったのです。『宇宙戦艦ヤマト』の映画配給で飛ぶ鳥落とす勢いの会社でしたから、ルーキー監督の映画をなめていたとしか考えられません。今では大後悔していることでしょう。 久しぶりにテレビ放送を見たのですが、画面の色が昔の映像と変わっているような印象を受けたのですが私だけでしょうか。とても、20年前の作品とは思えないテーマの新鮮さとオリジナリティーを感じます。環境問題がクローズアップされてきたからなおさらなのかもしれませんが、『風の谷のナウシカ』のテーマは人間の持つ本質的な残酷さのなかにあっても、希望を見出して生きてゆくこれまた人間の持つ生命力の美しさを感じさせてくれる作品だと思います。 最後のエンディングのタイトルに制作に携わった方々の名前が流れるのですが、よく目を凝らして見てみたら私の名前が、会社のスタッフリストのなかで一番上に載っているではありませんか。なんと、あの名プロデューサー鈴木敏夫さんよりも上に置いていただいて恐縮しておるところです。今後は名に恥じない、環境に優しい生活に心がけて余生を生きる覚悟です。 ![]() アニメのタイトルは『魔女の宅急便』なのですが、実はこの作品の原作を世に出したのは福音館という出版社に勤めていた私の高校、大学時代の同級生であった八鍬典子さんなのです。彼女が児童文学者の角野栄子さんと話あいをして、販促用の小冊子に連載していただいた作品なのだそうです。子供が自立して世の中に一人で羽ばたいて生きていく姿をテーマに書かれた内容なのですが、宮崎監督の目に留まり、構想をふくらませてアニメ『魔女の宅急便』に生まれ変わったのであります。 アニメが完成した時に、八鍬さんは大変に喜んでおられましたが、残念なことに6年ほど前に仕事半ばで病に倒れて亡くなってしまわれました。もちろん八鍬さんも私も山形出身で東京に夢を求めて上京したのですが、おもいがけずに二人とも宮崎さんの作品に、何らかのかかわりをもてたことは奇遇なことでありました。 ふるさと山形はまもなく特産のサクランボが色ずく季節をむかえ、そして紅花畑は一面オレンジ色の花で彩られます。スタジオジブリ作品と山形がこれほどまでに関係があったことを知る人は私以外にはいないのです。 先月には私の勤務していた出版社の副社長が亡くなりました。名物の社長さんが亡くなってかれこれ10年になりましょうか、月刊アニメージュの初代編集長も昨年亡くなりました。スタジオジブリの創世期にご苦労をした人々がバタバタと死んでいってしまったのです。昔の懐かしい話が出来る仲間がどんどんいなくなってゆく淋しさを感じながら、つい思い出を「ぽろっ!」と言ってしまいました。 ![]() アニメ『おもひでぽろぽろ』はもちろんスタジオジブリの作品で『魔女の宅急便』『となりのトトロ』のすぐ後に企画されました。高畠勲監督、宮崎駿プロデュースになる作品でしたが、高畠監督がなにより制作でこだわったのは徹底的にリアルな質感へのこだわりでした。 雨に濡れた仙山線高瀬駅の駅前の風景や、寝台列車の窓に映る夜の景色、車の中から見える澄み切った夜空、ベニバナ畑に朝日が昇る様子など、水、空気、光の質感がはっとするほどリアルに表現された作品でした。 セリフの音入れでも、本来ならば動画が出来上がってから声を入れる「アフレコ」というやりかたをするのですが、この作品は、柳葉敏郎さんが前もってセリフを録音したものにあわせて、口の動きを描くやりかたをしたのです。そうすることにより、口の動きとセリフが自然になるという高畠監督らしいこだわりようでした。柳葉敏郎さんは秋田の出身で、東北弁が抜けないは珍しい人気の俳優さんでしたから、トシオ役にはピッタリだったのでしょうが、果たして本場の山形の人にはどんな印象だったのでしょう。 制作にあったてのロケハンや、調査、プロモーションなど地元山形の新聞社や関係各位に何かとお世話になったようで、その節はありがとうございました。興行的にはいまひとつパッとしなかったのですが、20代後半の女性の自立、恋愛のこころのゆれをリアルに描いて同世代の女性には大変に喜ばれた作品でした。あいにく子供からお年寄りまでと幅も広いお客さんを取り込めなかった弱さだったのかもしれません。 スタジオジブリの作品でも宮崎さんの作品はヒットするが、高畠さんの作品はなかなかヒットしないという傾向がこのあたりから現れ始めたようです。しかし、会社としてはすべて宮崎作品で行くわけにもいかないわけで、ポスト宮崎さんをどう育てるかというのが鈴木敏夫氏の悩みの種のようでした。 つづく # by yamanokinoko | 2008-05-24 22:35
![]() 逆に、高畠勲さんが監督した『平成タヌキ合戦ぽんぽこ』の時には宮崎さんがプロデューサーにまわって出来上がった作品なのです。このようなコンビを組んだ作品が初期のジブリ作品にはいくつかあるのですが、創作の世界での共同作業、巨匠同士の二頭体制はなかなか難しいようです。 宮崎さんの特徴はなんと言っても絵コンテの抜群なうまさであります。レオナルド・ダビンチに匹敵する素描の正確さに加えて、想像上のイマジネーションを具体的に分かりやすく絵で伝えることが出来るのであります。こんな能力を持っている人はめったにいるものではありまでん。宮崎駿さんはウオルトディズニーとダビンチの才能をあわせ持ったようなひとなのですから、子供から大人にまで興味を持ってもらえる不思議な世界にいざなうことが出来る手品師なのです。 人の動きや表情、動物やキャラクターの独創性など制作の過程では全くの妥協を許さず作品に込めるエネルギーを見ていて鳥肌がたってしますほどの凄さを感じたものです。出来上がった宮崎さんのアニメ作品しか一般の方は見たことがないでしょうが、絵コンテの本が出版されておりますので一度ご覧になってください。その絵コンテのスケッチのなんと美しいことでありましょう。宮崎さんの絵コンテを見れば、どんな色彩でどんな音楽が流れ、どんな動きが楽しめて、主人公はどんな気持ちの言葉を話すのかが全部わかってしまえるのです。こんな完璧な絵コンテを描けるようになったのは果たしてどんな訓練と感性を磨いたのだろうかと疑問に思いながらも、一度も聞くチャンスがなかった。 その当時から、宮崎さんは「先生」と呼ばれるのを大変に嫌がっておられました。確か、大学は学習院大学で学ばれたと聞いていましたので、果たして卓抜な絵コンテや絵画の基礎はどうやって訓練なさったのかは謎であります。アニメを制作するには、なんといっても膨大な枚数の正確な絵コンテが必要になりますが、こんな大変な仕事は東京芸術大学でも教えてくれないし、どんな有名な絵描きさんでも真似が出来ません。 「職人わざと」言う言葉がありますが、日本のアニメの制作現場はその当時、テレビのアニメ作品を定期的に供給するために築きあげられた、見事なギルド体制が出来上がっていたのです。その草分けは皆さんご存知のとおり、大川社長が築いた東映アニメでした。宮崎さんも高畠さんも学校を出てから東映アニメに就職して仕事をはじめられたのです。 つづく ![]() いざ制作がスタートとなると制作現場のスタジオをどこにするかとなり、宮崎さんとも気心があう原さんのトップクラフトという会社にお願いすることにしたのでした。もちろん制作費が十分に集まっている状況ではなかったので、現場は大変に苦戦したようです。アニメの場合、内容をより面白く良くしようとなると、比例してお金と人手がかかるものなのです。宮崎さんはアニメ制作にかんしては極限まで妥協を許さない人でしたから、制作会社は人もお金も悲鳴を上げながらやっと完成したのです。そのおかげでトップクラフトはその後、会社が脱力状態となり活動が続かない状態になってしまったのでした。 会社としては、『風の谷のナウシカ』の評判が、予想をはるかに越える人気であったために、これから出版社としてアニメの製作部門をどうするか大議論になりました。本職で一生懸命にやっている社員にしてみれば、余計なことをやってくれたと思っている社員がほとんどだったのであります。私なんかは宣伝部長という立場で、『風の谷のナウシカ』旗振りのトップランナーであったために猛烈な嫉妬と批判の矢面に立たされたのでした。 そんな具合ですから、社内にアニメ部門を設置するわけにはいかないだろうということで、宮崎さんと高畠さんの活躍できる制作会社を会社が出資して子会社として設立したのでありました。場所は吉祥寺の北口から徒歩8分ほどの閑静な住宅地でした。名前のジブリは宮崎さんの提案ですが、アフリカの砂漠に吹く風を意味するイタリア語が語源だと聞いたことがありますが定かではありません。そこで最初に立ち上げた作品はたしか、『天空の城ラピュタ』だったとおもいます。 つづく ![]() 雑誌の連載も一年が過ぎた正月明けに、思いがけないビックリする出会いがあったのであります。私が、とある大手広告代理店に正月のご挨拶に伺った折に、営業局長さんに宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』のコミックが月間アニメージュで大変な人気であること、そして、出来ることなら劇場用のアニメ作品にしたいとの思いを、コーヒーを飲みながら熱く語ったのでした。 すると、局長さんは急に異様な反応をしたのであります。宮崎・・・まてよ、もしかしたら、自分の部下にいる宮崎は彼の弟かもしれないぞといいだしたのです。さっそく電話で連絡を取っていただき、お目にかかったのですが、まさしく宮崎駿さんの弟さんでありました。 ご挨拶もそこそこに、宮崎さんから切り出された話は、正月に実家で兄の駿さんと会った折に、連載の『風の谷のナウシカ』をそろそろアニメにしたいよねと、酒をくみ交わしながら話をしたばかりだったと言うのです。そこで局長さんも身を乗り出して、それじゃ一緒に立ち上げようか!と話が盛り上がったのでありました。これがアニメ『風の谷のナウシカ』が実現するきっかけとなった歴史的な瞬間なのです。 つづく ![]() 私たちの会社はまだ歴史も浅く、経済的にも決して楽な状態ではなかったからです。しかも、月刊誌のアニメ雑誌で話題になったぐらいではマニアの間でしか良さはわからないし、宮崎駿という作家の名前だって一般の人は誰も知らなかったのであります。そんな状況なもので、劇場用アニメを大金を使って作るなどとは、言語道断、とんでもない夢を見ているのではないのかと、社内では誰にも相手にされなかったのです。 当時大ヒットしていた『宇宙船間ヤマト』だって、まず初めにTVシリーズでスタートし、視聴率が上がり人気が上昇してきたことを確認してから、劇場版の制作が始まるのです。いかに内容がすばらしいからといって、最初から劇場用アニメの企画を立ちあげるなどとは無謀極まりないと猛反対する人ばかりでした。 今では一流ブランドになってしまったスタジオジブリなる制作会社を立ち上げる前のことでもあり、その当時、新興の出版社が劇場アニメを作るなんて考えられないことでした。社内の一部の跳ね上がり者の独りよがりの企画だったのでしたが、社長は進取の気性に富んだ方で、若いものが熱くなっていることには理解を示してくれました。残念ながら、その当時はプロデューサーなる言葉もまだなかったし、作品に投資を募って共同で制作するシステムも確立していなかったのです。もちろん会社には劇場アニメを作るような大金はありませんでした。 関係グループにはレコード会社、映画会社などがありました。社長は読売新聞の社会部の記者あがりの人で、時の総理大臣から芸能界、スポーツ界、財界まで実に幅広い人脈のお持ちの方でしたので、時代の空気を読む感覚の鋭い人でした。 新参者が世に出る時には、他社がまだ手がけない分野に用心深く、積極的に打って出る以外に生きていく道はないのだと、私は教えられたものでした。 つづく # by yamanokinoko | 2008-05-11 22:06
![]() TVシリーズの大人気に続いて、劇場版の制作公開と次々に大ヒットを飛ばしていたのであります。私の所属する出版社は宇宙戦艦ヤマトの情報を独占掲載することにより、月間アニメージュも驚異的に部数を伸ばしたのでした。アニメ情報誌としての黄金時代を迎えていたのであります。 そんな時期に、鈴木敏夫氏の発案で宮崎駿さんに月間アニメージュでの『風の谷のナウシカ』の連載を依頼したのであった。内容はこれまでのSF作品には見られない、新しい世界を描いたものでした。人類の科学のすいを集めて作り上げた文明を、愚かにも『火の七日間』という戦争で、地球は人間が住めない腐海と呼ばれる毒を出す植物に覆われてしまったのです。そんな環境の中でも希望を持って生き抜く少女、ナウシカの物語に、読者は衝撃を受けたのでした。 アニメ映画は子供向けに作るのが常識で、大人の見る映画ではないと言う考え方があたりまえだったのが、『宇宙戦艦ヤマト』のヒットで一変してしまったのです。つまり、アニメで育ったお客さんが、10年もアニメに取り付かれているまに立派な大人になっていたわけです。見方を変えれば、アニメのお客さんの層が広がっていたのに映画関係者は全く無関心だったのであります。業界の人たちはとても保守的で、これまでの成功体験でしか判断できなくなっていたのであります。 つづく # by yamanokinoko | 2008-05-09 23:46
![]() もう、からこれ20年ほども前のことになろうか。スタジオジブリの鈴木敏夫さんがコミック本の『おもひでぽろぽろ』を持ってきてアニメ化の相談にやってきた。 内容は27歳のOLタエコが山形の義兄の実家へと一人旅をし、そのさなかに小学校5年生だったころの自分を回想していく内容であった。 主人公のタエコには、その当時、歌手としても人気絶頂であった今井美樹さんの起用を決めていたようだったが、山形に住む相手役の青年トシオには劇男「一世風靡」のメンバーである柳葉敏朗くんを起用したいと言うのが鈴木さんの強い希望であった。たまたま、その当時、私が「一世風靡」のプロデューサーをやっていたための要請であった。 今では、スタジオジブリを代表する名プロデューサーとなった鈴木さんだが、実をいうと、宮崎駿さんの本格的なアニメ監督作品『風の谷のナウシカ』を世に送り出す折に、一緒に苦労した仲間なのです。その当時、会社では鈴木氏が雑誌『アニメージュ』の編集長、常に斬新な企画を連発して急成長をしており、私は宣伝部長の立場とレコード会社の取締役を兼任して暴れ回っておりました。 つづく
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